リズム時計(シチズン)の始まり(その2)
「農村に精密工業を」「日本を東洋のスイスに」という賀川豊彦の夢はとん挫しかけましたが、思いは多くの人たちによって継承され、こと掛け時計、置き時計と英語では訳されるクロックのメーカーの数はセイコーやシチズンなどの専業メーカー、デザイン会社などがデザインをおこし、生産はOEMで委託する非専業も合わせると、私の実感では日本は世界のどこの国よりも多いのでは、という気がします。
(ウォッチはさすがにスイスが一番多いかもしれません)
さて、賀川豊彦が産業育成のための技術者養成を目指して設立した時計技術講習所。
この組織は農村時計製作所、そしてリズム時計と日本の時計産業にとっての一つの大きな流れを作り出すだけでなく、そこを巣立った若者たちの手による大小さまざまな時計メーカー設立のきっかけともなりました。
講習所には全国各地から青年が集まりましたが、比較的近いということもあって長野県の青年が多かった。
彼らは学んだ技術を故郷に持ち帰り、現在も続く長野県岡谷工業学校というインキュべーターの中でふ化させ、千曲川時計、龍水時計(龍水社)という二つの時計メーカーが生まれるきっかけになりました。
その1社、龍水時計の生産した掛け時計が1955年、見事通産大臣賞を受賞。
当時、北伊那にあった龍水社は農協がスポンサーということもあって、地場産業として栄えていた養蚕の建物の一角を時計工場として使用しており、受賞をきっかけに視察に訪れた役人が土間のままの工場の床にびっくりしたそうです。
その後龍水社は20年ほど営業を続けましたが、最終的にはいわば親筋にあたるリズム時計の傘下に入りました。
時計産業のみならず、信州には現代でも多くの精密工業が集積していますが、このきっかけの一つが当時、誰もが大風呂敷だろうと危ぶんだ賀川豊彦の農民の自立のための時計技術講習所、そしてそれに答えた若者たち。
これらが相まって「日本のスイス」が誕生したのです。